1年

引っ越してから、よく地図を見るようになった。ここ数年は駅を中心とした生活をしていたけれど、今回は長く住むつもりでいるし、ここを自分の地元にするつもりで、気になる場所をブックマークしては、散歩がてら訪れてみたりする。土地勘と愛着は比例しないこともあるけれど、幸いこの町は今のところ、知るほどに居心地が良い。

少し前の話だけれど、3月の終わり頃、住んでいる自治体から3000円分の商品券が届いた。コロナ対策で、地域事業者への還元を促すための商品券とのことだった。嬉しい。使えるお店のリストを見てみると、行ったことのあるお店がいくつもあった。そして行ってみたくてgoogleマップに保存したばかりのもつ焼きやさんもあった。
とりあえず偵察のつもりで店の前を通ってみると、営業時間が変更されていたのか、15時過ぎなのにもう開く所で、なおかつ一番乗りというチャンスだった。
カウンターは1人ずつパーテーションで区切られているものの、久しぶりの居酒屋然とした雰囲気に心が踊る。メニューを熟読し、串を5本とモツ煮とビールを頼む。炭の上にのせられていくのは、すべて私のための串というラッキータイム。凍ったジョッキは久しぶりだ。
常連らしきお客さんで賑わい始めた頃、「これ使えますか」と商品券を出すと「おっもう届いたんすね」と言われて、その地元っぽいやりとりがちょっと嬉しかった。

次に使ったのは、近所の喫茶店だった。休日は混むのと営業時間が短い(コロナ対策)ことをのぞけば、私の理想の喫茶店で、月に2、3回くらいのペースで通っている。ケーキもコーヒーもとてもおいしいうえに、私の好きな絵も飾ってある。
家から向かうと、少し坂をのぼった先になるのだけれど、先日、その坂の上からだと富士山がよく見えることに気がついて、さらに好きになった。細い道から見ると、富士山はより大きく見える。

最後の1000円分は、ロースカツをテイクアウトするのに使った。
今の家の売主さんにおすすめしてもらったとんかつやさんで、引っ越し後に幾度か店の前で鉢合わせたこともある。
持ち帰って、ご飯を炊いて、いざ食べようと思ったら肝心のご飯を失敗していた。軽量カップ文鳥用の、切り落とした蕪の葉をいれていたため、横着して他のカップで軽量したのが原因だ。
食べられなくはないけど、べちゃっとした食感の残念ご飯でおいしいとんかつを食べながら、今後お米を炊くことで妥協しない、という誓いを心に刻んだ。

そうこうしているうちに4月が終わり、ついに引っ越して1年がたった。
1年というのは、こんな風に、商品券を使いたい先をいくつも思いつくことができるだけの日数なんだなと思う。
一方で、休業を知らせる看板の日付に幾重にも線がひかれ、延長を余儀なくされているお店もある。今日もまた、緊急事態宣言延長のニュースが流れたばかりで、
私はまだこの町の「いつも通り」を見たことがないのだなとも思う。もう1年が経つというのに。

「あのこは貴族」を見て思い出したあのこ

「あのこは貴族」という映画を見た。
現代ものではなかなか描かれることのない、でも確実にある「層」との間に生まれた縁がテーマになっている映画で、新鮮だった。

そして私は映画を見ながら、登場人物の彼女たちと同じ年頃に出会った、Mちゃんのことを思い出していた。
Mちゃんとは、転職活動中のバイト先で出会った。5人くらいいた同期のうちの1人で、週に1回は全員でランチをする、みたいな文化に及び腰になっていた自分をMちゃんはなぜか面白がって、なにかと話しかけてくるようになった。昼休み、私が「郵便局に行く用があるから(一緒にランチはできない)」というと、じゃあ一緒に郵便局行く、と返してくるような子でもあった。

そのバイト先は、いわゆる大企業で、周囲の人たちは皆良い人だったけれど、自分にとっては「新卒で就職できなかった自分」について日々考えてしまう場所だった。バイトをきっかけに契約社員になることなどを目指している子もいたけれど、
私はとにかく、ここからでて「正社員」になりたいと思っていた。正社員になればなにかが解決すると思っていたのだ。そういう時期に出会ったのがMちゃんだった。

Mちゃんがなにかしらの会社の社長の孫だ、ということは知っていた。お父さんが東京にくるからネイルを落とさなきゃ、とよく言っていて、厳しい家なんだな、と思っていた。
そしてMちゃんはしばしば、早く結婚相手を決めるように急かされている、という話をしていた。
好きな人もいて、でもそれと結婚相手は別の話だということもあけっぴろげに話していた。いつも笑っていて、人懐っこい子で、思い出せばいつも姿勢がよかった。

当時、私とMちゃんは暇さえあれば一緒に遊んでいて、いつだったか、Mちゃんの「好きな人」のマンションに泊まらせてもらったこともあった(その人の自宅は関西にあるため、家主はいなかった)。変な話だが、たぶん飲んだ帰りに終電がなくなったとかそんな感じだったと思う。
いかにもデザーナーズマンションという感じの部屋で、私たちは1つのベッドに寝転んで彼女のおじいちゃんが特集されている「プロフェッショナル仕事の流儀」を見た。

やがて私は就職が決まり、Mちゃんからは結婚式の招待状をもらった。
バイトが終わってからは一度も会っていなかったので、正直、結婚式に呼ばれる間柄でもないような気がしたけれど、バイトの同期との同窓会のようなつもりで参加した。
そこで私は初めて、床につくドレスで結婚式に参加する人たちを見た。待合室に足を踏み入れた時の違和感というか、私が開くべきではないドアを開いてしまった感じは、よく覚えている。
ウエディングドレスを着たMちゃんは相変わらず、姿勢良くにこにこ笑っていた。

彼女はそのまま夫の海外転勤についていき、それ以来、一度も連絡をとっていない。

それなりに長く生きてくるとそういう、もう2度と会うことはないだろうなという人もいる。会わないからといってなくなったわけではなく、稀に思い出すと新たな発見もある。
「あのこは貴族」は私にとって、そういうきっかけになった映画だった。
Mちゃんのことを検索してみたけれど、名前では何もヒットしなかった。
元気にやってるといいなと思う。私も適当にやってます。


あのこは貴族 (集英社文庫)

あのこは貴族 (集英社文庫)

土鍋を買った

土鍋を買った。米を炊く用の丸い土鍋だ。
土鍋については、これまでも何度か検討しては、でも自分の生活に組み込むのはちょっと難しそうだな、と見送っていた。
しかし昨年あたりからどうも炊飯器の調子が悪く(もう10年近く使っているので仕方ない)、引越ししてキッチンにも余裕ができたことだし、なおかつ買おうと思ってた土鍋はとても安い(3000円くらいだ)、と条件も揃ったことで思い切って購入した。

これがとてもいい。

まず米がおいしい。炊飯器は徐々に調子が悪くなっていったため、たまにちょっとべちゃっとしたところがある炊き上がりになるのに慣れてしまったというか、「まあこんなものだ」と諦めのような気持ちで接していたのだけれど、
到着して初めて炊いてみた土鍋ご飯の、全粒が生き生きとつややかな炊きあがりには、お米とはこのように美しいものであったのか、と感動してしまった。さらに、食感が良くなったことで味も格段に跳ね上がった。昨日壊れかけの炊飯器で炊いたご飯と、今日新品の土鍋で炊いたご飯との間には、同じお米というのが信じられないくらいの差があり、旅館などででてくる「概念としてのおいしいご飯」みたいだった。

さらに、土鍋ご飯は思っていたより簡単だった。土鍋で米を炊く=はじめちょろちょろなかぱっぱのあれ…、という漠然とした「めんどくさそう」イメージを抱いていたのだが、いざ土鍋に付属していた「ご飯の炊き方」を読んで見ると、1合の場合、20分くらい浸水した後、だいたい10分で沸騰するように中強火にかけ、沸騰したら弱火で1分、その後しばらく蒸らすといういたってシンプルな工程だった。
浸水と蒸らしは放置しておけるので、火にかけている10分ちょっとを気をつけておけばいいだけなので、生活(=放鳥の合間)への組み込みも難なく果たされた。

それから、土鍋で炊いたご飯は冷凍してもおいしい。出勤日はなるべく弁当を持参しているので、冷凍しておいたご飯を解凍して使う機会はそれなりに多い自分にとって、この点はとっても嬉しい。
炊飯器は保温するにも半日が限度な気がするし、炊飯器で炊いたご飯は冷凍→解凍でべちゃっとしやすいのだ(これも炊飯器の調子の悪さに原因があったのだと思う)。
それがいまや、解凍してもつやつやのご飯が食べられるようになった。

そんなわけで、土鍋を手に入れて以降、私はお米ばかり食べていた。
たまごかけご飯に三色丼、納豆ご飯にキーマカレー、先日初めて作った衣笠丼もおいしかったし、「丼」だけでなく、炊きたてご飯があると思えば、これまであんまりやらなかった焼き魚への意欲もわくし、焼きたらこでおにぎり、牛肉はしぐれ煮、塩辛とか、梅ひじきとか、こう、塩気のあるものちょこっととご飯だけで随分なご馳走ですよね、なんて日々の献立をお米中心にたてていたら、体重がてきめんに増えていました。
そして現在、米は1日1回までと決め、フィットボクシングに励んでいます。

春の目標は、春野菜で炊き込みご飯をすることです。

年末年始日記

2020年は12月25日が仕事納めだった。
クリスマスだし、その日は在宅勤務だったので、仕事を終えたらロイヤルホストでステーキを食べようと決め、昼も外出はせずに諸々の仕事を片付け、年賀状を書いたりもして業務を終えた。
外に出ると、意外にも人が多くて驚いた。クリスマスだからか、駅前にはワインなどを売るワゴンも出ているし、ケーキ屋にはちょっとした列ができている。こういう、どことなく浮き足立っているような空気はこの街に越してきてから初めて見たかもしれない。
私だって今日はロイヤルホストだもんね、と階段をかけあがり(最寄りのロイホはビルの2階にある)、ドアを開いて「1人で」と告げる。メニューに添えられたクリスマススペシャルの告知を見ると、ステーキにオニオングラタンスープにデザートまでついてくるので、せっかくだからこれにしようと決めてオーダー。越してきてからこのロイホには幾度かきているけれど、普段は1人客も多い中、今日はさすがに家族連れが多い。それぞれの食卓を聞くともなしに本を読みつつ、私のステーキが焼けるのを待つ。
と、ゆっくりしていたのはここまでで、いざ料理が届き始めると、湯気に急かされるようにして食べ続けてしまい、30分もしないうちに全ての料理を食べ終えてしまった。
せっかくのクリスマススペシャルをこんなあっさり食べ終わるのはもったいないような気もしたけれど、家で文鳥も待っていることだしとビールを買って帰宅した。

その翌日は、実家に置いたままになっていた自分の荷物を片付けに行った。
感染症対策でしばらく帰っていなかったけれど、単独で作業するだけなら大丈夫でしょう、ということで約8か月ぶりに実家を訪れた。
荷物は8割方本だった。長年実家に置きっ放しにしていたのだから文句をいう筋合いはないと覚悟して、全部処分していいよと言ったのは私なのだけど、やはりバイト代で買い集めた大島弓子選集だけはとっておきたい…と思ったら、時すでにおそしで処分されていたことには少なからずショックをうけた。(それでも弟は買い取り先に確認してくれた。やさしい)
意気消沈したまま仕分けていたので、仕分けを依頼されていた手紙や書類、雑誌類はあっさり捨てられた。大島弓子撰集に比べたら、どれも手放すことは簡単だった。
最終的に、仕分けに時間がかかりそうなものだけ持ち帰ることに決め、さらに「捨てる」予定の本の山からいくつか本を抜き出し弟に車で送ってもらう。
帰宅してから、面倒になる前にと腰を上げ、持ち帰った写真類を仕分けた。私はずっと、写真に写った自分をみるのが苦手だったのだけれど、こうして時間が経って見れば他人のようだった。懐かしい人が写っているものだけを残し、残りは処分する。

いい加減、持ちきれるものだけ持つべきなのだ、とは分かってはいるのだけど、大島弓子撰集を全て書い直すとしたら、という皮算用がやめられず、月1冊ずつでも買おうかなと思っている。

30日には、開店時に並ばないと食べられないという噂のパフェを食べに行った。店は歩いて行ける距離にあるのだけれど、何回行ってもすでにテイクアウトが2、3品残っているだけ…となっていたハードルの高いお店で、同じく気になっていたという近所の友人と、せっかくの休みだからとチャレンジすることにした。
列を作っていい時間まで時間を潰し、いざ店の前に行くといつの間にか十数人が並んでおり、オーダーをとってもらうまでにかなりの時間がかかった。店内は狭いため、最初にオーダーをとり、店内に入れる時間になったら電話が来るシステムなのだ。
おそらく食べられるのは3時間後くらいだろうと見当をつけ、昼ごはんを食べに行く。待っている間に足裏が冷え切ってしまい、うまく動かない感じがする。パフェへのハードルが高すぎるだろう…という気分になっていたけれど、いざパフェにたどり着けば、確かに耐えた甲斐のある素晴らしく丁寧なおいしさで感動した。
夜になってやはり足裏が痛いな…と見てみると、かかとにひび割れができていた。かかとがひび割れるのは始めてだ。慌ててクリームを塗りたくり、分厚い靴下を履いて保湿を心がける。

晦日は掃除をして、正月に向けて雑煮用の鶏肉を煮た。実家の雑煮は醤油、酒、砂糖で煮た鶏肉を、煮凝りごと鶏ガラスープに入れ、青菜と餅と食べるというものだ。
せっかくなので鶏ガラでスープもちゃんととる。
そして正月の朝、満を辞してお雑煮を食べた。ちゃんと実家の雑煮の味がして満足する。
1日は父の誕生日ということもあり、マスクをしたまま食事はせずに帰るということにして、実家に顔を出す。
玄関を開けた瞬間、妹がかつてコスプレで使っていたウィッグをかぶった甥っ子が登場して笑ってしまった。
幼稚園に通い始めた甥っ子は随分と語彙が増えており、明らかに両親から覚えたのではないような言葉も使うようになっていて「社会」を感じた。年長さんになったら、好きなお姉さんがいる組に入りたい(そのころお姉さんは卒園していることは理解していた)とも言っていてかわいかった。
甥っ子以外は全員マスクだったものの、久しぶりに顔を見て話ができてよかったなと思う。

そのほかの日も、映画を見たりゲームをしたりと至って正月休みらしい日々を過ごしつつ、日毎に増えていく感染者数に落ち着かない気持ちでもあった。
それは今も変わらない。仕事については、昨年から隔日出勤が続いており、肉体的には休めているはずなのに全然休んだ感じがせず、なんだか疲れているような気がする。

思い当たる理由は諸々あるけれど、主には移動をしないことによって体力が落ちているせいだろうなと思うので、今年はちゃんと運動をすることを目標にしたい。
などと言いつつ、年末に買ったフィットボクシングがなかなか習慣化できないまま1月が終わりそうなので、2月からはやる気を出したい。

「死ぬまでに行きたい海」とカチューシャの記憶

岸本佐知子さんのエッセイ集「死ぬまでに行きたい海」を昨年末に読んだ。
自分も知っている場所の話がでてきくるのも楽しいし、行ったことのない場所も、気になっていた場所である率が高く(YRP野比や海芝浦など)、さらに田舎の思い出(丹波篠山)などは、自分が幼い頃に行った父方の田舎である広島の記憶と混じり合うような感じがして面白かった。
それはおそらく、自分の中の「田舎の引きだし」を参照しながら読んでいるからなのだろう。文章を読むということは、純粋な想像だけでは難しく、往々にして自分の知識や記憶を参照しながら読むものだ。そうして、普段の生活ではなかなか触れることのない記憶に触れるとき、私は気持ちが良いと感じる。

死ぬまでに行きたい海

死ぬまでに行きたい海

書籍のサイトには「岸本佐知子とつくる“些細な記憶”の地図」というものも作られていて、いろんな人の「些細な記憶」が地図上で読めるのも楽しい。
www.switch-pub.co.jp


これを見ながら、私だったらどこかなあ、と考えていて、思い浮かんだ場所のひとつがイギリスの夜道だった。
私は母親が運転する自転車の後ろに乗っていて、頭には買ってもらったばかりの、チュールがついたカチューシャが乗っていた。3歳の頃、1年だけイギリスのケンブリッジに住んでいたときの記憶だ。

カチューシャを売っていた店は細い、うなぎの寝床みたいな構造で、奥へと続く棚に所狭しと、様々な装飾を施したアクセサリーが飾られていた。
そこで、なぜか母は私にカチューシャを買ってくれたのだ。チュール付きの、つけると顔を半分隠すような格好になるカチューシャで、3歳児に似合うものでもないし、ねだった覚えもない。むしろ母親がそういう「無駄な買い物」をしたのが珍しかったので印象に残っているような気がする。
自転車に乗っている記憶はその帰り道だ。
頭に派手なカチューシャをのせた私は、それを落とさないように気をつけながら、自転車の後部に備え付けられた椅子からはみ出した、自分の白いタイツを履いた足を見ていた。
この記憶は脳内にごく短いgif画像のような形で保存されていて、いくら思い出そうとしてもこれ以上の記憶は出てこなかったのだけど、
母親にLINEでカチューシャのことを訪ねると「ああ、ピンク色のやつね」と返事があり、あっさりと、カチューシャ部分のサテンと、チュールには網目の交差する部分にかすみ草みたいな飾りが付いていたことを思い出した。
なんで買ってくれたのかは、なんとなく聞かなかった。

あの店はまだあるのだろうか。
ないとしても、私の頭の中にはまだこの短いgif画像のような記憶があるし、もしかすると、ピンクのカチューシャを被ったアジア人の少女を記憶している人だっているのかもしれない。

そういった些細な場面は脳内の博物館にそっとしまわれて、いつか参照される日を待っている。

ケンブリッジにはそれ以降行ったことがない。死ぬまでにもう一度でいいから、行って見たいものだと思う。