入院日記/コロナ禍の入院

先日、生まれて初めての入院&手術を経験した。
8月の半ばの、すでにひと月以上前の話だ。
最近サボり気味とはいえ、長らく日記を書いてきたにも関わらず、なぜ今頃になって書いているのかというと、たぶん自分にとって文章にするというのは「定着」の作業に近いからなのだと思う。
退院しても、術後の検査(腫瘍を取る手術だったのでその病理検査があった)が終わるまでは判断保留な気がしていて、状況を定着させて次に行く気になれなかった。

つまり、今こうして日記を書く気になれているのは、術後の検査も終わり、ひとまずは安心して良い状況になれたということでもある。(よかった)


病気が見つかったとき、まず思ったのは「不摂生をしていなくてもなるときはなる」ということでした。
一方、早期発見できたことで「具合が悪くなる」というターンを経ずに治療ができたのはありがたいことでもあり、
なので、最初に書いておきたい結論はやはり「健康診断大事!」という事です。
そして、なんか気になるけど次の健康診断がまだ先…という時は、待たずに行くのが良いと思う。よろしくお願いします。


以下、忘れないうちに入院時のことを記録しておきたいと思います。


コロナ禍に入院するということ

入院にともないひと月ほど仕事を休むつもりだったので、それなりに忙しくしていた7月、半ばになって不意に新型コロナウイルス感染症の第7波が押し寄せてきた。
社内にも感染者が出る。薬局で発熱外来に繋がらないと相談している女性と出くわす。電車内のどこからか咳き込む声が聞こえてくる。感染者数は雪だるま式に増加し、アプリを起動させたまま長らく沈黙していたcocoaすら初の通知を送ってきた。
ここまでの2年半、ちゃんと予防対策をしてればある程度は大丈夫……という漠然とした自信があった自分も、今回ばかりは防ぎ切れないのではないかと弱気になってくる。

そして7月末、入院前最後の検査日に「入院日はまずPCRを受けてもらってからの入院となります」と聞かされた(そりゃ当然そうなのだが)。
恐る恐る「もしそこで陽性だったらどうなるんですか」と聞くと「その日は入院せず、再度日程の組み直しになります」とのこと。さらに「最近そういうケース増えてますね」とも付け加えられる。

仕事を片付け、文鳥を預け(これは無事最適なところに預けることができたのだけど)、荷造りをして病院を訪れるとこまでたどり着いたのにそのまま帰宅するなんて最悪だ。

そこからは毎日が「果たして予定通り入院できるのか?」という不安との戦いだった。
日に日に感染者数が増えていく一方、仕事の算段をつけるために出社日も増える。当日陽性がでたらこの準備も全部水の泡……という想像からどうにか目をそらしつつ、外食(それまで1人では割と外食していた/読書目的の喫茶店も含む)もせず、満員電車に乗り込み、目が覚めるたびに体調に耳をすませるという日々が続いた。

入院日

そんな入院前がとにかく辛かったため、入院当日、トランクを引きずりながらPCR検査を受け、待機の後「陰性でしたよ」ときいた瞬間、なんかもう一仕事終えたような開放感だった。久しぶりに深呼吸した気がした。
病室に着いたのは10時頃で、気が抜けたまま運ばれてきた「入院患者用の昼ごはん」を食べた。
PCRにはいろんな人が並んでいた。松葉杖をついている人、妊婦さん、老人、子ども、そして私。味の薄い味噌汁を飲みながら、みんな無事陰性だっただろうか、と思った。

昼食の間に、続々と陰性結果のでたルームメイトが到着し始める。
病室は4人部屋だった。コロナ対策で常にカーテンを引くように言われていたため、このルームメイト達と顔見知りになることは最後までなかったけれど、看護師さんたちの問診の様子は筒抜けであるため、互いの術後の経過をうっすらと把握し合うことで、なんとなくの連帯感は生まれていたような気がする。

昼食を終えると、今度は翌日の手術の案内がはじまった。
そう、手術は入院翌日を予定していた。
ここまでコロナのことばかり考えていて、初めての手術という点については完全に意識の外にあった。これはまあ緊張しないで済んだという意味で、良いことでもあったんだろうなと思うけど、「もしかして、覚悟完了してないかも?」なんて動揺しはじめたところで消灯時間(21時)がきた。
普段は23時以降に寝るのでまだ全然眠くない。
この日のために大量にDLしてきた電子書籍(漫画含む)の中から、「ヤコとポコ」の続きを選んで読み始めると、なんだかポコのいじらしさが預けてきた文鳥に重なってしまい切なくなってきて、「メダリスト」の再読に切り替える。

向かいのベッドには私と同じく明日手術を予定している、おそらく中学生と思われる女の子がいて、時折彼女のすすり泣きとLINEの送信音が2枚のカーテン越しに聞こえてきた。
私も、彼女も、そして隣のベッドに寝ている大学生くらいの女の子も(残りひとつのベッドは空いていた)、みんな明日が手術のようだった。
うまくいきますようにと思う。

何度かスマホを切ってみるがなかなか眠れず、睡魔がやってきたのは結局「メダリスト」再読6巻の頃だった。

緩やかな衰退

先日、下北沢に行ったら、見知っていたはずの風景が様変わりしていて驚いた。
通っている美容室があるので、街自体は久しぶりではないのだけれど、その日は時間があったので、好きな喫茶店に寄ってから行こうとかつての北口に向かったのだ。すると、曲がるはずの道沿いのビルが一つ取り壊されていて、一瞬どこにいるのかわからないくらいだった。

立ち止まって四方を確認してみると、おぼろげながらそこにあった建物の様子を思い出すことができた。
確かに古い建物だった。
いつ潰れてもおかしくないようなかばん屋さんが1階にあり、確か高校生の頃、そこで夏用のかごを買ったことがあった。使わなくなって以降は、実家の台所でスーパーのビニール袋をためておくかごとして使われていたはずだ。親はなかなか物を捨てないタイプなので、今もどこかにあるかもしれない。

しかしその実家だって、私がふとした折に思い出すのはリフォームする前の、今はなき実家なのだった。

自分はながらく、古い景色に魅力を感じてきた。
歴史的建造物とかそういうのではなく(それも素敵だけど)、生活の中にある、長く使われてきた古いものに惹かれることが多かった。
特に商業施設や飲食店が好きだ。大理石の階段と鈍い金色の滑り止めとか、大勢が手を滑らせたであろう木製の手すりの艶とか、はめ殺しの窓の重厚感、磨りガラスの、よくぞその繊細さで何十年もと褒めたたえたくなる佇まいとか、間口の小ささ、補修されたタイル、店先に置かれた植物の躍動、看板に使われているフォントの懐かしさとか、
そういった積み重ねてきた時間が今ここに詰まっているような景色が好きなのだけど、
近年、というかこのコロナ禍においては、そういった場所が急速に失われていっているのを感じる。

客足が遠のいて、というのはもちろんありつつ、高齢化した店主が店を閉める最後の一押しになっていたりとか、建物の老朽化であったりとか、理由は様々なようで、ある程度は重なっているのだと思う。
つまり、多くはコロナ前のペースでヒトが活動している状態ではキープできていたものが、ヒトの流れが減ったことで維持できなくなってしまった。
そして、「コロナ前」に戻そうというのも、もう無理があるような気がする。

戻れないということは、必ずしも悪いことではないし、いずれ、新しい規模でできることを考えることにシフトしていくように思う。

だから、失われていくものすべてを引き止めたいというのとは違うのだけど、
ただ、そこにはどう終わるのかを考える余地はあってほしいと思うし、そこに特別なものがあったということを、自分はそれをどう見ていたのかということを、誰にというわけではなくても残すことをしたいなと最近は考えている。

人質の朗読会

人質の朗読会」という本を読んだ。
ある国で、日本人旅行客たちがツアーバスごと反政府兵士に誘拐される。やがて事件は悲劇的な結末を迎えるが、しばらくして、彼らが人質として監禁されている最中に語った物語が発見されて……というところから始まる短編集だ。

そこで語られる物語はそれぞれの個人的な思い出であり、互いに関連しあってはいないのだけれど、どこか共通するところもあって、
なのでこの本をきっかけに、もしも自分がこの場にいたら何を話すだろう、ということを近頃は考えている。
真っ先に思いついたのは、子ども時代のこの2人の話。

ユリちゃん - イチニクス遊覧日記
あみちゃん - イチニクス遊覧日記

そのほかにもあれこれと考えては、それは日記に書いたかな…と自分で検索をしたりしている。

そして今日、朗読会用に思い返していたのは、小学生時代のバス停での思い出だった。


私はその日、ピアノ教室へ向かうためのバスを待っていた。
以前は近所で教室を開いていたのが、その頃から先生の自宅での教室に変わったのだ。
当時の私はあまりピアノが好きではなく…というのも先生が厳しいからで、その日も十分に練習ができているとはいえず、きっと怒られるだろうなぁと思いながらバス停にいた。

そして、気づくと目の前に女性がいて、ベンチに座っていた私を振り返り「お金を貸してくれない?」と言った。
お母さんよりは少し若そうな、でも十分大人に見える人だった。
怪しい者ではない、急いで駅に向かわなくてはいけない用事があるのに財布を忘れてきてしまったのだ、住んでいるのはバス停の横の道をずっと行ったAスーパーの先で、取りに行くのは時間がかかる、
そう説明され、Aスーパーの先は確かに遠いと思った。小学生に大人が頼みごとをするという状況に、動揺してもいた。
「バス代だけでいいの」と彼女は言った。
当時のバス代は、おそらく200円程度だった。ピアノ教室の日なので余分にお金を持たされてはいたはずだけれど、当時りぼんを買う程度の小遣いしかもらっていなかった自分にとっては十分大金だった。
しかしバス停には私たち2人しかいなかった。
彼女は悪い人には見えなかったし、確かに困っているように見えた。
なので私は200円を貸すことにした。

同じバス停にいたものの、私と彼女は待っているバスが違っていた。ほどなくして彼女の乗るバスが来て、私が乗らないこことに気づいた彼女は慌てたように電話番号をたずねた。
そうして私は迷わず、嘘の電話番号を答えたのだった。


当時の自分は、おそらく知らない人にお金を貸したことが親にバレるのが嫌で嘘をついたのだと思う。知らない人について行ってはいけないとよく言われていたし、これはその範疇にある出来事のような気がした。
大人になった今思えば、見知らぬ人に電話番号を教えなかったのはそれで正解な気もするのだけれど、

ただ、今思い返すと、あの人はまるで家事の途中で家を出てきましたという様子だった。財布どころかカバンも持っておらず、
まるで何かから逃げている最中だったのかなという気もするのだ。
勘違いならいいなと思う。
でも200円が役に立っていればいいなとも思う。
そして私が伝えた嘘の番号に、かけていなければいいなとも思うのだった。



先日、ある読書会をした時に「百年と一日」という本について、記憶のある一点を、拡大してみたような本だという話をした。無作為にGoogleMapのあるポイントを拡大した時のような。見知らぬ場所に、様々な記憶が降り積もっていることを発見したような。
その流れで「人質の朗読会」も似た雰囲気のある本だと教えてもらって読み、彼女の言っていたことがわかったような気がした。

結局この日記を書いているのも、朗読会に参加しているのと同じようなことなのかもしれない。


どうしても子どもの頃の記憶の方が思い起こしやすいような気はするのだけれど
今年のことも、いつかの朗読会のためにまとめておければなと思う。

マスクと夕方、いなり寿司


人気のない道でマスクを外すたび、流れ込んでくる情報の鮮やかさに驚く。
夏の湿度に草いきれ、住宅街のカレーの匂い。コンビニのチャイム音に視線を向ければ、袖をまくった警官が冷気と入れ替わりに店へ入っていくところで、そのさらに向こうには灰色の雲と雨の気配。
様々な断片がいつかの「夕方」と重なって、ずっと昔に読んだ漫画*1に「嗅覚に紐づけられた記憶は鮮明だって」みたいなセリフがあったことまで、ひと息に思い出す。


そんな風に、長引く感染症流行下においては、世界が少し遠くにある感じで、
なので、念のためにと受けた精密検査から病気が見つかり、あっという間に入院手術の算段がつく間も、どこか他人事のようにぼんやりとしていた。
病気といっても、現時点での体調は良く、幸い治療しやすいタイプとのことで術後の生活もこれまでと大きく変わるようなことはなさそうなのだけど、
それでも検索候補に「余命」が出てくるような病名ではある。

昔読んだ小説に「どのくらい生きるつもりの生き方なのか」と問われる場面があり*2、その言葉は物語のあらすじを忘れてしまってもよく思い返していたのだけれど、実はごく間近で問いかけられていたのだと気づいたような感覚だった。


その辺りのことはまた改めて書いておこうと思うけれど、
今後のために今メモしておきたいのはいなり寿司のことだ。

病気のことについて、親に報告しようと連絡をしてから会うまでの1週間、
とにかく気が重くて、考えているうちにわかりやすく食欲が落ち、お腹を壊し、寝つきが悪くなり、まさにメンタルにきているという状態だった。頭の中では「これがメンタルにきているという状態か…」なんて客観視できていても、食欲は思うように戻らない。
これが続いたら体調を崩すな…と焦りつつ、「食欲ない 食べ物」などで検索しているうちに、自分の過去ツイートに「食欲がない時にいなり寿司を食べたら美味しかった」とあるのを発見し、
藁にもすがる思いでいなり寿司を食べたら、嘘みたいにちゃんとおいしかったのだ。

これまで特に好物と認識していたわけではなかったけれど、いざという時にいなり寿司が頼りになることは末長く覚えておきたいなと思う。

そんなこんなで親に会うまでにはなんとか体調も整い、親も年の功で、さほど深刻になることもなく、手術がんばろーね!という感じで受け止めてくれたのでめちゃくちゃホッとした。


あとの不安は入院期間中の文鳥のことだけだ。
幸い安心できる預け先は見つかっているのだけれど、
コロナ禍に飼い始めてこの2年以上はもっとも身近な存在として過ごしてきたので、多分自分の方が寂しくなるだろうという気がしている。
生き物と暮らすというのは、こうして、まんまと弱点ができることなんだなと思う。

帰り道、コンビニの角を曲がるあたりで、ペットカメラのアプリを開き、そろそろ私が帰宅する時間だとわかって「待ち」の体勢についている文鳥を見るときの、
この浮き足立つ感じもきっと、いつかの夕方に、マスク越しの情景として、思い出すのだと思う。

*1:多分魚喃キリコ

*2:伊坂幸太郎の「終末のフール」

最小限の生活

「最近読んだ本」の話題になったとき「何を読んだっけ」と振り返るための資料がないことに気がつき、今年は読書記録をつけることを目標に決めた。
補助的にアプリにも記録をつけはじめた。今月は何冊読んだ、というようなことがグラフで提示されるので、このペースだと、生きているうちに読めるのはあと何冊くらい…そもそも何歳まで生きるつもりか…なんてことを考え出してしまってちょっと怖い。



先日、ついに勤め先でも新型コロナウイルスの社内感染があり、しばらく在宅勤務が続いた時があった。週の半分は在宅勤務をする生活になって2年近くが経つけれど、3日以上続くのは初めてで、自分の最小限の生活というのが可視化されたように感じた。
料理、食事、文鳥と遊ぶ、掃除、洗濯、買い物と運動、読書、映画に植物の世話
仕事以外はだいたいこのくらいの出来事で構成されていて、早めの余生みたいだなと思う。

「いまのうちに」何かしなければという気分は定期的に襲ってくる。
時間はあるのに、何もできていないような気がして、そのことに罪悪感を覚える。
一時停止のまま数年放置され、すでにテープは伸びきってしまっているのではないか…などと不安になりつつ、そういったもやもやを少し脇においやり、とりあえず料理をしたり、食事をしたり、仕事をしたりする。



そんなコロナ禍において、文鳥は私の生活リズムを整え、なおかつ最も好奇心をそそる存在として寄り添ってくれている。
ソファに寄りかかって本を読んでいるとき、文鳥は大抵肩の上で丸くなって眠っている。もしくは私の髪の毛を羽繕いしてくれている。たまにページをめくる手を威嚇する。
物語に泣いていると、その涙を飲もうと首を伸ばすので笑ってしまう。
戦時下に拾われたスズメとの生活を描いた「ある小さなスズメの記録」を読み終えた時もそうだった。いつかこの本のことを思い出すとき、首元の温もりもまた蘇るのならば、とても嬉しいことだ。