最小限の生活

「最近読んだ本」の話題になったとき「何を読んだっけ」と振り返るための資料がないことに気がつき、今年は読書記録をつけることを目標に決めた。
補助的にアプリにも記録をつけはじめた。今月は何冊読んだ、というようなことがグラフで提示されるので、このペースだと、生きているうちに読めるのはあと何冊くらい…そもそも何歳まで生きるつもりか…なんてことを考え出してしまってちょっと怖い。



先日、ついに勤め先でも新型コロナウイルスの社内感染があり、しばらく在宅勤務が続いた時があった。週の半分は在宅勤務をする生活になって2年近くが経つけれど、3日以上続くのは初めてで、自分の最小限の生活というのが可視化されたように感じた。
料理、食事、文鳥と遊ぶ、掃除、洗濯、買い物と運動、読書、映画に植物の世話
仕事以外はだいたいこのくらいの出来事で構成されていて、早めの余生みたいだなと思う。

「いまのうちに」何かしなければという気分は定期的に襲ってくる。
時間はあるのに、何もできていないような気がして、そのことに罪悪感を覚える。
一時停止のまま数年放置され、すでにテープは伸びきってしまっているのではないか…などと不安になりつつ、そういったもやもやを少し脇においやり、とりあえず料理をしたり、食事をしたり、仕事をしたりする。



そんなコロナ禍において、文鳥は私の生活リズムを整え、なおかつ最も好奇心をそそる存在として寄り添ってくれている。
ソファに寄りかかって本を読んでいるとき、文鳥は大抵肩の上で丸くなって眠っている。もしくは私の髪の毛を羽繕いしてくれている。たまにページをめくる手を威嚇する。
物語に泣いていると、その涙を飲もうと首を伸ばすので笑ってしまう。
戦時下に拾われたスズメとの生活を描いた「ある小さなスズメの記録」を読み終えた時もそうだった。いつかこの本のことを思い出すとき、首元の温もりもまた蘇るのならば、とても嬉しいことだ。