マスクと夕方、いなり寿司


人気のない道でマスクを外すたび、流れ込んでくる情報の鮮やかさに驚く。
夏の湿度に草いきれ、住宅街のカレーの匂い。コンビニのチャイム音に視線を向ければ、袖をまくった警官が冷気と入れ替わりに店へ入っていくところで、そのさらに向こうには灰色の雲と雨の気配。
様々な断片がいつかの「夕方」と重なって、ずっと昔に読んだ漫画*1に「嗅覚に紐づけられた記憶は鮮明だって」みたいなセリフがあったことまで、ひと息に思い出す。


そんな風に、長引く感染症流行下においては、世界が少し遠くにある感じで、
なので、念のためにと受けた精密検査から病気が見つかり、あっという間に入院手術の算段がつく間も、どこか他人事のようにぼんやりとしていた。
病気といっても、現時点での体調は良く、幸い治療しやすいタイプとのことで術後の生活もこれまでと大きく変わるようなことはなさそうなのだけど、
それでも検索候補に「余命」が出てくるような病名ではある。

昔読んだ小説に「どのくらい生きるつもりの生き方なのか」と問われる場面があり*2、その言葉は物語のあらすじを忘れてしまってもよく思い返していたのだけれど、実はごく間近で問いかけられていたのだと気づいたような感覚だった。


その辺りのことはまた改めて書いておこうと思うけれど、
今後のために今メモしておきたいのはいなり寿司のことだ。

病気のことについて、親に報告しようと連絡をしてから会うまでの1週間、
とにかく気が重くて、考えているうちにわかりやすく食欲が落ち、お腹を壊し、寝つきが悪くなり、まさにメンタルにきているという状態だった。頭の中では「これがメンタルにきているという状態か…」なんて客観視できていても、食欲は思うように戻らない。
これが続いたら体調を崩すな…と焦りつつ、「食欲ない 食べ物」などで検索しているうちに、自分の過去ツイートに「食欲がない時にいなり寿司を食べたら美味しかった」とあるのを発見し、
藁にもすがる思いでいなり寿司を食べたら、嘘みたいにちゃんとおいしかったのだ。

これまで特に好物と認識していたわけではなかったけれど、いざという時にいなり寿司が頼りになることは末長く覚えておきたいなと思う。

そんなこんなで親に会うまでにはなんとか体調も整い、親も年の功で、さほど深刻になることもなく、手術がんばろーね!という感じで受け止めてくれたのでめちゃくちゃホッとした。


あとの不安は入院期間中の文鳥のことだけだ。
幸い安心できる預け先は見つかっているのだけれど、
コロナ禍に飼い始めてこの2年以上はもっとも身近な存在として過ごしてきたので、多分自分の方が寂しくなるだろうという気がしている。
生き物と暮らすというのは、こうして、まんまと弱点ができることなんだなと思う。

帰り道、コンビニの角を曲がるあたりで、ペットカメラのアプリを開き、そろそろ私が帰宅する時間だとわかって「待ち」の体勢についている文鳥を見るときの、
この浮き足立つ感じもきっと、いつかの夕方に、マスク越しの情景として、思い出すのだと思う。

*1:多分魚喃キリコ

*2:伊坂幸太郎の「終末のフール」