世界が閉架式図書館になりつつある

どこで読んだのか忘れてしまっていたけれど、ずっと気になっていた言葉だった。それを今日やっと思いだすことが出来た。

「今、世界全体が閉架式図書館になっているんじゃないでしょうか」

というのは恩田陸「像と耳鳴り」に出てくる言葉だったのだ。
家にあった文庫版を手に取ったところ、ご丁寧にしおりまではさんであった。が、実際に思いだせたのはネット検索のおかげだった。


先日、仕事で調べものがあって国会図書館に行った際、上記の言葉の意味をつくづくと考えてしまった。
閉架式図書館というのはつまり、自分の求める本を申請して始めて手に取ることができると言うシステムのことである。
膨大な蔵書をもつ国会図書館では、求める本を探して歩き回るだけで一日が過ぎてしまいそうだから、そのシステムは合理的と言えるのだろう。しかし長い待ち時間にしびれを切らした人が係員に苦情を言っているのを目にするのも日常茶飯事である。

自分の求めるものが分かった上でしか行動できないということは、よく考えたら恐ろしいことだ。
閉架式図書館というのは、よくインターネットを例えるのに使われる言葉だが、正確に誰が言い出した例えなのかは知らない。
しかしとてもよく出来たたとえだと思う。
googleを開き、そこに入れるキーワードが無ければ、何も見ることは出来ないのと同じように、閉架式図書館でも求める本の題名が分からなければ、その本を手に取ることすら出来ない。
(その為に今は館内に設置されたPCで検索し、取り出してもらう書籍を予約するシステムになっている)
だが、本屋に赴き、店内をまわるうちに気になる本を手に取り、例えばその作家の名前などが無意識にインプットされる、といった作業を経て形成されるものが無ければ、求める本というものも産まれないのではないだろうか?

もちろん、それは円環を描く日常の中で起こることであり、現在町には本屋が存在するし、友人から聞いた面白い本の話、町で見かけた広告、電車の中で隣の席の人が読んでいた本、ネットで見かける書評、など様々な情報を手にすることで無意識を形成することもできる。

ただ、私が怖いと思うのは、その閉じられた書庫の中にある膨大な本のことである。それはどのくらいあるのかわからない。ネットでも同じこと、この世界の中にどれほどの情報があるかは分からなくて、きっとその全てを手に入れることは出来ない。そして、それだけを知っている感覚が少し怖いのだ。

はじめからインターネットのある世界に産まれる人たちは、それを疑問に思うことすらないかも知れない。
しかし私が「世界が閉架式の図書館になる」という言葉を思いだすのにネットの力を借りたように、それはとても便利なツールであると同時に、ちょっとした無力感を感じさせる存在でもある。
求める「それ」がとても近くにあるのに、「何か」というキーワードを思いださなければそれに触れられないという感覚。
そして「何か」を思いだすだけで求めるものを簡単に手に入れてしまえるということに対するちょっとしたもったいなさ、のようなもの。

いろいろと考えてみたところで結論のでる話ではないけれど、私自身は閉架式だろうがなんだろうが図書館は好きだし、「なんかないかな」と思って本屋をぶらぶらするのも好きだ。求める情報が簡単に手に入るインターネットによって得た情報は計り知れないほどあるし、検索エンジンなどを思いつき、開発する人はなんて頭がいい人なんだろうと思って感心してしまうばかりである。
ただ、それに甘んじて、無意識に鈍感になりたくないなとは思う。
その予防として、こういう風に日記をつけたりするのも役に立つのかな、ともちょっと思っている。

とにかく閉架式図書館という言葉をインターネットに喩えた人、そして小説でそれを分かりやすく実感させてくれた恩田陸はきっと頭の中に図書館のような情報量があって、その情報の間で素早く立ち回ることができる人なんだろう。

いい機会だからもう一度「象と耳鳴り」を読み返してみようと思う。

象と耳鳴り―推理小説 (祥伝社文庫)

象と耳鳴り―推理小説 (祥伝社文庫)