近いもの遠いもの

今、外はみぞれが降っている。昨日春一番が吹いたとは思えないほどの寒さだ。
駅からの帰り道、傘をさして歩きながら、その雨よりは固形物に近いものが鳴らす音をもう少しよく聴きたいと思った時、傘ってなんか不便だなあと思った。傘にみぞれが落ちる音が大きいため、傘を閉じないとその音が聴こえないからだ。
簡易屋根とも言うべきその形状はいたってシンプルであり、道理にかなっているのだか、パソコンとかインターネットとか飛行機とか宇宙船とか、すごい勢いで進歩し続けているこの世界にあって傘ってなんかあまりにもシンプル過ぎないか? と思う。構造的にはそれこそ洋服とか靴とかと同じくらい直接的な発明品だ。
そこで少し思いだしたのが、「イノセンス」の試写で押井守さんが犬の人形を抱きながら話してくれたこと。
うろ覚えだけれど、人っていうのは自分の身体から遠くにあるものには非現実的な構造でも受け入れることができるのに対して、自分の身体に近いものに関しては、見知らぬ形状を本能的に拒否し、認識しにくくなる、という話だったと思う。
確かに、21世紀になっても人間は何百年前と大してかわらない服装をしているし、サトイモの葉っぱを傘代わりにするのと同じ様な感覚でビニール傘を手に入れて使う。最も身近にあって使うものだからこそ、シンプルかつ直接的な構造の方が良いということなのかもしれない。
だが、そうやって長く続いている「もの」の歴史ってのも良いなあと思う反面、防雨スプレーなんてものが発明されて、全身に振りかければぬれることなし! なんてドラえもんみたいな発明品もあったら良いなと思う。思いつつ、それを使うか? と尋ねられたら、滅多に使わない気もする。
それはきっと雨とかみぞれとか雪とか、そういうのに触れる機会がなくなるのも惜しいからだ。つまり、みぞれの音が聴きたいなら濡れるしか無いのだ。
という訳で、私は少し立ち止まり、傘を閉じてみて、竹やぶに降るみぞれのなんか昔もらった南国の楽器みたいな音を聴いて満足し、すぐに傘を開いて家に帰った。

晩ご飯は鍋。肉とか野菜とかマロニ−とかがもう充分すぎるほどに煮詰まった鍋。食事に不思議さは求めてないのになんか不思議としか言い様の無い鍋を、これがこの冬最後の鍋かもしれないなと思いながら食べた。そして食べ終わったころには、みぞれは雪になってた。