「日日雑記」/武田百合子

日日雑記 (中公文庫)

日日雑記 (中公文庫)

武田百合子さんは最初の日記である「富士日記」をつけはじめる際に以下の3点を心構えとしてあげたという。

・自分に似合わない言葉、分からない言葉は使わないようにしたい
・キライな言葉は使わないでいよう
・美しいという言葉を簡単に使わないようにして、それがどんな風に美しいのかを書こう
(要約です)

そして、「私は自分がはなす言葉でしか書けない」とも言っている。確かに武田百合子さんの作品は話し言葉のようであり、読んでいるこちらとしては、だんだんに、まるでよく知っている人のように思えてくる。しかし、その日記の特異な点として、「日記でありながら、著者の心情描写がほとんど見当たらない」ということがあげられると思う。
彼女の言葉には嘘がなく、あっけらかんとしているようでとても鋭い。特に人物の描写などになると、ほんのワンシーンでも対象の本質を取り出して見せてくれる様な、鋭い観察する目をもった人である。
そして、読者は著者の視線を借りることで、著者の心情までもだんだんと読み取れるようになっていく。
献辞として「いなくなった人たちに」とあるように、この作品の中で著者は様々なものたちがいなくなっていく場に立ち会う。そしていつものように観察するのだが、ここでも、その視線こそが何よりも著者の心情を物語っている。
特に印象に残ったのは深沢七郎さんが亡くなった日の描写。無神経とも思える管理人のAさんとの会話。そして回想の中の深沢七郎さんの言葉「生きてるってことは人の死んだ知らせを聞くことだって思いましたねぇ」。さらにお葬式に行って、そこの景色を「目薬をさすように」目に焼きつけてかえる、という言葉。武田百合子さんの著書を読んでいて思うのが、著者の記憶から抜き出される人々の言葉というのは、なんて生々しいんだろうということ。そして続く飼い猫の死についての記述。これは前の日記にも書きましたが、悲しいとか絶望したとかそんな言葉を使わなくても、著者の思いが痛いほど伝わってくる。それは「ことばの食卓 (ちくま文庫)」に収録されている「枇杷」という短編を読んだときにも感じました。
前にも書いたO氏の入院先に見舞いに行った日の描写も印象に残る。「おれ見ない」というO氏の台詞は何度も読みかえしてしまうくらい、見ずにはいられない箇所なのだけれど、ここの部分でもO氏の台詞は良い。
「西武が勝つとバーゲンやるんだってね。俺、行きたい。安いんだってね。背広買いたいんだ、痩せたから」
この後、もう一人の見舞へ出かけたのち、著者はこのまま電車に乗って帰るのではなく、「世間の人に戻りきってから」帰りたいと思い、寄り道をするのだが、そこで(盗難を用心してか)、首のない菊人形を見て帰ることになる。ここでふと、読んでいる私もそれを「見て」いるけれど、そこには「それを見る」という著者の意識が働いているのだということを実感する。
この「日々雑記」は武田百合子さんの最後の作品なのだが、文中のところどころで、自らが死にゆくものであることに対する様々な感情が「お湯のように」湧き出てくる。
かと思えば娘であるHと不感症についての話をするなど、文章の中に気取ったところがなく、自分ってこうなんだ、という主張もほとんどない。そして私はますます武田百合子さんについて知りたいと思い、読み返してしまう。
最後に、中公文庫版の「日々雑記」に収録されている巌谷國士さんによるあとがきと同じ理由で、私はまったくただの一読者でありながら武田百合子さん、と常に表記したくなります。