角田光代/庭の桜、隣の犬

庭の桜、隣の犬

30代の子供の居ない夫婦それぞれの視点から描く物語。妻の房子は駅の名前をずらずらと記憶出来るような、かつての天才少女。夫の宗二は「ビジョン」を追い求めている会社員。物語は、ある日宗二が会社の近くに四畳半のアパートを借りる、と言い出す所から始まる。

夫婦って何だろう?愛でもなく嫉妬でもなく、何かもっと厄介なものを抱えて、私たちはどこへ向かうのだろう?(帯より)

角田光代さんの小説は最近でた数作以外はほぼ全て読んでいる。ただ、私にとっては「大好き」と公言し辛い作家さんでもある。それはなぜかといえば、角田さんの描く主人公たちに自分と近いものを見つけて、痛い気分になるからだ。しかしそこがまた、角田さんの本を読みたくなる理由でもある。
角田さんの小説には大きく分けて三つのパターンがあると思う。

1→2→3という順番に近い空気を持っていて、今回の「庭の桜、隣の犬」は2と3の中間に位置する作品だと思います。
しかしそれはあくまでも主人公の立場としての分類であって、角田さんの描くすべての物語に共通する題材は「日常の中に紛れ込んだ異物」なのだと思う。それは人物だったり出来事だったり言葉だったり新しい習慣だったりするのだが、今回の場合は「夫がアパートを借りる」「変な女につきまとわれる」というのが双方に生じた異物だった。あらすじとしては、その異物によって、日常にさざ波が起こり、その波紋に寄って今まで目を逸らしていた「問題」がクリアに映し出されていく、という過程の物語。そのような異物へのクローズアップの仕方については角田さんは素晴らしく上手い。
年代とともに(たぶん角田さん自身の)主人公となる女性の年齢もあがってきて、かつても夫婦ものはあったけれど、今回ほど、乾いた夫婦像をリアルに感じたことは無かったように思う。
特に印象に残ったシーンは、ラスト近く、

「まだ錯覚していたかった。(中略)ゼロに数字が積み重なっていくのを房子は感じていたかった」p253より

という台詞。
この台詞に共感出来る、と言いたくないところが「角田光代が好き」と公言し辛い理由であって、このような台詞にどこか共感してしまう自分がいるからこそ読みたくなるんだなーと思う。
そして最後の章「家族写真」。ここまで読んで、経験を積み重ねていくことによって、だんだんと新鮮さは薄れていって、やがて気持ちを揺り動かされるという機会も減っていっちゃうんじゃないか? そして実際減っていないか? という漠然とした恐怖を感じると共に、でもそれは乗り越えられるかもしれない、ということを考えた。みっともなくてもからっぽでも、あきらめないという選択肢は希望だと思う。