「席を譲らなかった若者」という記事を読んで思ったこと。

らくだのひとりごと: 席を譲らなかった若者

私がこの記事をとても興味深く感じたのは、この文章に反応した方々の多くと同様に、自分にも似たような場面の記憶があるから。
リンク先の記事は電車内での出来事についてなんだけど、ここ最近、こういう年配の方の「悪口や嫌味をわざと聞かせるように言い続ける場面」に良く出くわす。特にバスの中に多くて、例えば、車内で化粧をしている女の子の後ろで「いやねー」とか「恥知らず」とかそういう話を延々とし続けたり、スカートが短すぎるとかそういう話だったり、携帯電話でメール打ってるのを覗き込むようにして「禁止なのにね」と言ってみたり。近くで見ていて気分が悪くなるくらいに悪口は同じところをぐるぐる回る。もしそれを迷惑に感じてるんなら、直接言えばいいのにと思って歯がゆいけど、私も「直接言えば」とは言えない。
「席を譲らなかった若者」の記事にでてくる場面でも、「(連れに)席を譲ってくれませんか」という言葉さえあれば、話は解決しただろうと思う。「どうぞ」と席をゆずったら「年寄り扱いしやがって」と怒鳴り返される、怒鳴られはしなくても断られる、というのもよく聞く話だから、譲る側にも勇気がいるのだ。もちろん、怪我をしている人や妊婦さんや、杖をついていたりする足腰の弱そうなご老人の場合は、すぐに譲ろうという決断が出来るけれど、ハイキング帰りの元気そうな団体だったら、私もすぐには譲らないと思う。
譲って欲しければ、そう言えばいい。自然発生的な好意を享受できて当たり前だと思うのは傲慢だ。

記事の中では、老人の嫌味に耐えかねた若者がこう言い返している。

「あんたたちさぁ、山は歩けるのに電車では立てないの? それっておかしくない? 遊んできたんだろ? こっちはこれから仕事に行くところなんだよ。だいたいさぁ、俺みたいなヤツが土曜日も働いてあんたたちの年金を作ってやってるんだって分かってる? 俺があんたみたいなジジイになったら年金なんてもらえなくて、優雅に山登りなんてやっていられないんだよ。とにかく座りたかったらシルバーシートに行けよ」

一見筋が通ってるような気もするし、コメント欄などではそのような意見も多くあったけど、やっぱりこの言葉は「売り言葉」に対する「買い言葉」でしかないと私は思う。まず見ず知らずの目上の他人を「あんた」呼ばわりしてる時点でおんなじ土俵に立ってしまった感じだし、年金云々というのはまったくもって言い訳にしか聞こえない。「年金作るために働いてる」って言葉からしておかしいけど、こういう意識にさせてるのは「年金もらえないらしいよ」という世論がそれだけ共通認識になってしまったということだろう。そしてますます払わない人が増えるという悪循環。
それでも、目の前でこれだけネチネチ言われたら、こういう風に憤りたくなる気持ちも良く分かる。
ちょっと疑問なのが、「シルバーシートに行けよ」と言ったその時に、シルバーシートが空席だったのかどうかということ。空席だったなら、この言葉の意味は分かる。立っている人の多い電車内で、そこだけぽっかり空いた優先席を見ると、優先席に座る権利のある人が優先的に優先席に座ってくれればいいのにな、と思うことがあるからだ。でも空いてなかったんならやっぱりこの言葉は「俺じゃなくてシルバーシートに座ってる奴に言えよ」という言い訳に思える。
なんで私がこの部分にこだわるかと言うと、学生時代に優先席に座っていて、おじいさんに怒られたことがあるからだ。
もう十年以上前の話。昼間で、電車内はがらがらだった。そのおじいさんは途中の駅から乗り込んできて、私の隣に座った。そして不意に「ここはあんたの座る場所じゃないんだよ」と、怒鳴ったのだった。いきなりだったから、私はびっくりして、すぐに立ち上がったんだけど、だんだん「そんな言い方することないじゃん」という気持ちが沸いてきて、知らないおばさんが「こっち(の席)おいで」と言ってくれたのにも余計悲しくなって、半べそで電車を降りてしまったんでした。弱すぎる。
確かに、特に考えずに優先席に座っていた私が悪いんだけど、他人に向かって話しかけるときに、それはないんじゃないかとは今でも思う。それからずっと優先席には座っていないけど(単なる意地になっちゃってる)、優先席に自ら座る高齢者(元気な感じの)というのもあまり見ない。とりあえず私の行動範囲である東京都内の電車では。
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話がそれたけど、私自身は、やはり年長者は敬うべき存在だと思う。けれど、敬われて当然だと思うような「年長者」にはなりたくないと思う。
しかし何よりも他者に向かって話をするときは、少なくとも自分が嫌だと感じるような話し方はしたくないと思う。喧嘩腰に喧嘩腰で返してしまったら、相手の非を責められないと思う。