どこであれ、それが見つかりそうな場所で

例えば、電車の窓越しに見える景色とか、鼻のおくがつんとするような冬の匂いとか、ちょっとした人とのやりとりの連鎖とかから、ふと何かをを思い出したりすることがある。それは記憶ではなく、もちろん記憶とも重なっているんだけれど、むしろ印象といったほうがしっくりくるようなもので、「言葉」という形に置き換えるのは難しい。
もしできたとしても、口に出して言ってしまったら、なんだか嘘くさいし感傷的だし陳腐だし、何よりそれからどんどん離れていってしまうような気がして、 結局は「いい天気だな」とか「鼻が痛い」とか「デジャヴだ」とか言ってみたりするくらいでお茶をにごしている。にごしてるという意識もあまりない。
でもたまに、やっぱり何かを言いたいと思うことはあって、自分の言葉の足りなさにもどかしくなりながらも、あらためてじっくり見てみると、これはもう、自分だけの言葉なのかもしれないと感じることがある。前に永井均さんの「私・今・そして神」の中の私的言語についての章を読んで思ったこと(id:ichinics:20050807:p1)にちょっと近い。〈私〉という感覚こそが私的なものであるとするなら、その感覚は他者の理解を得られる可能性のないものなんじゃないか、なんて。
でも例えば、本を読みながら、物語や登場人物に感情移入するということだけでなく、きわめて個人的な「何か」を見たりすることがある、ということは昨日もちょっと書いたけれど、その何かはやはり自分以外の誰かの言葉によって伝えられたものなんだな、というところに、共有でも共感でもない、大事なものがあるように思う。そして、そういうことに出くわすことは、ほんとうに嬉しいことだなあと思ったりしているわけです。

なんて、なんだかわけのわからない文章になってしまったけれど、こういうことをぐるぐる考えながら、なんか頭にひっかかっていたのは「どこであれ、それが見つかりそうな場所で」(東京奇譚集)という言葉だったりした。