日記を書くこと

ブログとそれをとりまくいろいろについての話題は、あちこちのブログでよく見かける話題のひとつで、私もはてなブックマークとかで見つけたりすると興味深く読んだりする。でも、個人的には意識して考えたことがほとんどない話題だった。
それはたぶん、私がブログを書いてるつもりがあんまりないからなんだろうなと思う。
だけど、先日コメント欄でふと「モチベーション」という言葉を使って、なんで私はこの日記書いてるのかなぁ、とか考えはじめたら、それはやっぱり、いままでさんざん考えたことのある話だった。

「(略)思考には形がない。暗号のようなもの……形も実体も方向もない衝動だ――それを自分以外のだれかに伝えるまではな。だれかに伝えたとたんに、それはテーブルの上において調べることのできる思想となる。つまりだれかに話までは自分がなにを考えているかわからない。わたしがおまえに話すのはそのためなのだ。(略)」
シオドア・スタージョン『夢見る宝石』p96

あーまたその話ですか、と言われそうだけど、つまりそういうことなのだ。ここで言われている「おまえ」が私にとって今はこの日記であるということなんだと思う。この台詞を発している人物と受け手の関係性はちょっと特殊なので*1、ありうる、と思えるけれど、私の場合これは口にだす会話とは代替できない。
そして「あーまたその話ですか」と私は書くけれど、「また」と言うのは、日記の読者である私の反応だ。私の書く日記は、基本的には、私の「私」への言葉からはじまっている。まあ日記ってそういうものかもしれない。で、じつは、私は自分の文章を読み返すのがわりと好きだったりするんですけど(気持ち悪い?)、時間から切り離されてエントリ単位になった言葉を見ると、新しい発見もあったりして、それがとにかく楽しい。
例えば、毎日の思考の流れっていうのは、本や映画や、そういったものから受ける影響と切り離せないので、ここには全部がごっちゃになってあるまんまになっているんだけど、その影響に、後から気付くってことが、結構多い。散らかってるなぁとは思うのですけど。

モチベーション

でも。じゃあそもそも、なぜ書きたいことが「ある」のか、そしてそれを公開するのか、といえば、やっぱりそれが誰かに届くかどうか、ためしてみたい気持ちがあるからだとも思う。それを意図してない、自分の思考の整理としての文章もあるけど、この暗号のような衝動が、誰かに解読されればいいなぁ、と思ってるものの方が、多い。その範囲は広くなくていい。1人でもいい。でも、そのだれかがその解読されうる私のエントリを目にしたときに、ほかの有象無象の文章たちも、それがどういう場所で書かれたものかという、背景になればいいなぁ、とか思ったりしてます。
それは、私が誰かの特定のエントリに対して文章を書く時にとくに考えることで、つまり私もそういったもの、例えばエントリとエントリの間を繋ぐ言葉になっていない何か、とかを想像しながら、誰かの文章を読むのが好きだから、背景を残しておきたくなるんだと思う。
そして、それが正確な理解に結びつかなくても、解読されたかも/解読したかも、ということを、ただ感じられる瞬間てのが、やっぱり一番うれしい。ただし、その瞬間てのは「ある」と信じているので、それが全然なくてもモチベーションが損なわれるっていうことは、ないように思う。とりあえず、今のところは。

反省

でもやっぱり、私の文章にはわりと自己完結してる部分があるなってのも自分で感じてて、そこがなんか閉じた感じ/もしくは自意識なのかなぁ、とかも思う。だからどうする、といっても具体的な策はないのだけど、なんて、なんかまたまとまらないことを書いてしまった。
続きはまた考える。

*1:それについては「夢見る宝石」の感想を書くときにする/[追記]と思ったけどネタバレになるのでやめときました