わたしがおじさんになったら

一生ってなんで一方通行なんでしょうか。たまには、おじさんになったりおばあさんになったり小学生になったり中2男子になったり、つまり男になったり大人になったり子どもになったり女性になったり、してもいいんじゃないかな。
でもそんなの外見でしょ、外側が何でも、自分は自分なんだから、という考えの人もいるかもしれない。でも、とりあえず私はいまのところ、外側がかわれば中身もかわる、と考えています。なんて言葉にすると、まるで外見がすべてと言っているみたいに受け取られがちだけど、もちろんそういう意味ではなくて、属性の束の、一要素である外見が変われば、その集合である私も少なからず変わるのは自然なことだと思うに至った(それはこの日記を書きはじめてから今までに気付いたことのひとつでもあります)。要するに、中2男子として扱われてるうちに、精神的にも中2男子に近付かないとは言えないんじゃないのということです。ちょっと違うけど。
でも、ということはきっと、自分のままである限り、いきなり器がかわったってしっくりこなくて、最終的には昔なじみの、このまんまの自分がいいやと思うのかもしれない。うーん? それはちょっときれいごとかもしれないけど、とにかく器を行き来することで、もうちょっといろいろ体験できたら楽しいだろうなと思うし、いろいろな諍いがそれで解決したりもするかもしれない。
年齢については、タイムマシンでなくていいんです。ただ、世界からおじさんとして接してもらえる日が一日でもあれば、わたしはもっとおじさんに近付けるような気がする。中学生になってみたら、また「大人になりたい!」とか思うかもしれないし、おばあさんになった自分を見て、どう思うのか……は長生きできればいずれわかるだろうからその時でもいいけど、でもそれはできなくて、このまま一生自分なのかーと思ったら、ちょっとつまんないような気がした。
でも、それができないからこそ、人は妄想するのかもしれませんね。私が私じゃないものであったらということを。あのひとお昼ご飯何食べたんだろう、とか。あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう、とか、そういうことを、たぶん。
そして、誰でも何でも自分である可能性を妄想をしてみることで、もしかするともうちょっと、仲良くなれる人もいるかもしれないなと思います。