この世界の片隅に

監督:片渕須直


原作も素晴らしかったけれど、その印象をこれ以上ないほど丁寧にアニメという表現で再現してみせてくれた、これもまた素晴らしい映画でした。
こわい場面もたくさんあったけれど、映画を見終わった瞬間、私の中に残っていたのは「生活をしよう」という決意であり、劇場を出た後、エレベーターに乗り合わせた人に「良い映画でしたねえ」なんて、つい声をかけたくなった。
あまり先入観を持って見に行かない方が良いとも思うので(あまりに良い良い言われると、ちょっと斜に構えてしまうということは私にも覚えがあるし)、おすすめです、と言うに留める。

ここから先は、生活の話。

歴史を描いた物語の登場人物は、ほとんど場合が歴史に名を残した人物であり、例えば「戦争」については多くの記録が残っていても、それに巻き込まれた人々の物語は、語られなければ忘れられていく。忘れられていくことが悪だというわけではないのだけど、ただその世界を思い描くときに、「自分」の身の置き場がないなと、子どもの頃よく思っていた。
だから、この原作を読んだときにまず感じたのは、これは自分たちの物語だということだった。つまり、街灯り1つひとつのしたにある生活の話だ。
何年か前、母方の「地元」である鳥取と、父方の「地元」である広島を妹と旅行したことがある。特にルーツ巡りとかを意識したものではなかったのだけど、父方母方それぞれの名字の表札をたくさん見かけたのは面白かったし、その後、親戚と会話する際のいいネタになった(久しぶりに会う親戚との会話というのはなかなか難しい)。
当たり前のことだけれど、そこには自分の知らない大勢の人が住んでいるのだということを知るのは、なんだか心強い。それは、こうの史代さんの描く風景のどこかにはきっとこの時代の私もいて、それなりに毎日を楽しく過ごしているはずだと感じたことに似ている。
どんなに深刻な状況があったとしても、人はその中に救いを見つけるし、まともであろうという支えを探す。それが生活するということだろう。
生活をしていない人などいない。
大家族も、一人で暮らす人も、家事をする人も、料理をしない人も、洗濯は全部クリーニング店に頼む人も、悲しいことがあった人も、お祝いの日も、それぞれに軟着陸すべき日常を持っているはずだ。
それを奪う権利は誰にもないし、生活をより丁寧に心地よく行おうとすることこそが、抗う方法であり、人の支えになるのだと思う映画だった。

原作を読んだときに「ひとつひとつのコマがまるで記憶のように描かれている。場を写し取るのじゃなく、気持ちごと画になっているみたいだ。」と書いたけれど、映画の印象もその通りだと思った。ぜひぜひ、劇場で見る事をおすすめしたい映画ですし、原作未読の方にはあわせて原作もおすすめしたいです。

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