君の名は。


新海誠監督の作品を初めて見たのはデビュー作の「ほしのこえ」で、確か先に制作にまつわるインタビューを見てからだったので、これを1人で作れるのかということに驚きながら見たという印象の方が強い。個人的にはその後、佐原ミズさんによって漫画化されたものがとても好きで、その後の監督の作品を熱心に追いかけていたわけではありませんでした。(ほしのこえ、のほかに長編は秒速しか見ていません)
今回は新海誠監督の新作で神木隆之介さんが声をやると聞いて、声優としての神木君が好きなこともあり楽しみにしていたのですが、こんな大ヒットになるとは想像もしていなくてちょっと驚いています。
ただ、

僕の名前を知らない人にも見てもらえる作品にしなければという気持ちが強くて。それもあって割と躊躇なく過去作で使っているモチーフとかシチュエーションも入れていきました。自分が一番得意なシチュエーションや語り口というのがあるので、それは全力で使おうと。僕のことを知らない人であれば、僕が10年前にやったことであっても今見たらフレッシュに見てもらえるんだろうと思いましたね。
映画『君の名は。』新海誠監督インタビュー! | アニメイトタイムズ

このように意識して、本当に監督の名前を知らない人にも届いている、というのはすごいことだなと思います。

公開してすぐ、TwitterのTLで、監督の作品を追いかけている人、そうじゃない人、両方から絶賛の感想が流れてきて、これは早く見に行かないと!と思い公開1週間後くらいに見に行きました。
事前情報はRADWIMPSの音楽が使われているということと、「転校生」のような入れ替わりものであるということのみ。

《以下ネタばれです。》
個人的に一番違和感を感じたのはOPでした。
メインテーマに合わせて、主人公2人の様子が次々に出てくる様子は文句なく気持ちが高揚する、もののはずなんだけど、物語の結末として重要な部分であるはずのことがここで明らかになってしまう。1クールもののアニメの終盤でOP曲代わるときの映像みたいな感じ。
ああ、ここにたどり着くまでのお話なんだな、と思ってしまって実際そのとおりなことに、ちょっと物語に入りこむ勢いをそがれてしまった気がしました。

それでも、前半のテンポよく描かれる「入れ替わり」シーンは楽しかった。
直接会うことがなくても、文字データをやりとりすること、状況を共有することで気持ちの距離が縮まっていく様子は、インターネットが当たり前にある今っぽいなと思いました。
これがインターネット以前だったら、会うことをもっと優先するような気がする。
それから、入れ替わったということが声の演技とキャラクターの動きだけではっきりとわかるのもうまいなと思った。

それから何よりもぐっときたのが東京の風景です。
自分が生活している場所と地続きにあることを想像できるような細かな背景は見ていて嬉しかった。
下の画像のメインビジュアルなんて、一時期毎週通っていた階段で、その頃のことを思い出したりもした。

と、いろいろ好きな箇所もあったのですが、全体的な印象は自分にはしっくりこなかったという感じで、その理由として大きいのはたぶん、歌詞のある音楽がたくさんかかるというところだったと思う。
これは監督自身も、音楽がかかる場面を物語のピークに持ってくるように制作した、音楽に合わせてシーンの長さも変えていった、と語っていることからも、今受ける映像の作り方なのだろうと思います。正直、ここに違和感を感じてしまったのは自分の老いなんだろうな~と思いました。
個人的には、見終わったあとに口ずさんでしまうような印象的な1曲を持って帰りたかった、という気持ちがあって、そうなる勢いがあるのはたぶんOPの曲なんだけど、ラストにかかるのはそれではない(いい曲なんだけど)ことに、ここであの曲こないのか!って思ってしまった。

物語の後半にある仕掛けについては、ハレー彗星が近づいた頃(1986年)に作られた作品のことなどを思い出して、彗星なら仕方ない、という気持ちにもなりましたし、新開監督が1986年に当時13歳だったと確認してそういった影響もあるのかなと思いました。
ただ、色々な感想を読んでいるとそこに「震災後」を重ねている人も多く、それはあまり気が進まないなと思っています。
たぶん、自分はまだ震災後をファンタジーと重ねることに抵抗があるんだなと思います。もちろん人それぞれだとは思いますが、運命を回避できるかどうか、というお話に重ねるのはしんどかった。

それから記憶についての扱いは、前半の入れ替わりの時点での忘れ具合と後半の忘れ方との違いをもっとはっきり描いてほしかったなと思いました。

一番好きだった場面は、終盤近くのすれ違う電車の窓越しに目が合うシーン。日々すれ違う大勢の人の中に、自分にとって特別な人がいるかもしれない、という、たぶんそれがこの映画のテーマでもあると思うのですが、その感覚をうまく掬い上げている場面だなと思います。
私はあの瞬間にバーン!と音楽がはじまってほしかった。
という具合に、映像とのリズム感の齟齬が気になりながら見た映画でもありました。
でもこの大ヒットの理由、みたいなことにはすごく興味があるので、見てよかったししばらく考えていたい。

推しの卒業とミュージカル「王家の紋章」

私の推しメンである宮澤佐江ちゃんが舞台「王家の紋章」に出演するというニュースを知ったのは2015年7月14日のことでした。
今や48グループの恒例行事となった第7回選抜総選挙が行われた約ひと月後のことです。
第7回の総選挙前に、佐江ちゃんは自身のTwitterなどで「これが最後の総選挙」という発言をしていました。その言葉の後押しもあり、結果は過去最高順位の8位。
ファンはその結果を喜びつつ、来年の今頃にはいないのだという寂しさを感じていた中での発表でした。
帝国劇場で行われる舞台の、しかもヒロイン役(Wキャスト)という大役で、きっとこの舞台が、卒業後の初仕事になるのだろう、と思いました。

翌2016年の3月に卒業コンサートが行われ、グループ在籍10年目の記念日であった4月1日をもって宮澤佐江ちゃんは48グループを卒業しました。
卒業までの間、握手会などで、別れを惜しむばかりでなく、「王家の紋章」への期待について語ることができるというのはとてもありがたく、嬉しいことでした。卒業しても終わりじゃない。これからの佐江ちゃんも応援できる。だから寂しくない、という気持ち。

そして迎えた2016年8月「王家の紋章」です。
私が帝国劇場に行ったのは、なんとまだ学生の頃に親と一緒に「レ・ミゼラブル」を見に行って以来のことでした。
……ということからもわかるように、私はあまりミュージカルを見たことがありません。
舞台自体、年に5作品見るかみないか程度。
今回のキャストの方も、ニュースで見た当時はキャロル役(佐江ちゃんとWキャスト)の新妻さん、そしてイズミル役(Wキャスト)の1人である宮野さんしか知りませんでした。

その程度のリテラシーなので、比較対象として思い浮かべられる舞台がほぼないのですが、そんな私から見た、舞台「王家の紋章」は突っ込み所もありつつ、とても楽しめた舞台でした。

王家の紋章」は1977年に連載がスタートし、なんと現在も連載中、という超長寿作品です。
物語は、主人公であるキャロルが、古代エジプト時代にタイムスリップしてしまうというところから始まるのですが、未だ連載中ということからもわかるように、タイムスリップについては未だに解決していません。
なので舞台版でもその部分の解決はありませんし、それでいて原作の4巻目くらいまでの出来事を比較的忠実に描いているせいで、脚本のテンポが悪いなと思うところもありました。
特に、一度現代に戻ってから再び古代に戻る、という部分は、なぜタイムスリップ現象が起こるのかはっきりしないため、冒頭のタイムスリップシーンに比べるとあっさり行き来できているように見えてしまい、だとするとあそこまで歴史に干渉しているキャロルの存在は…? などなど気になるところは多々あります。

それでも初めて見た日(8月7日のマチネ)の私は佐江ちゃんのファーストシーンでもう泣いてましたよね…。

初めて「ミュージカル」に出演した佐江ちゃんを見たのは2011年の「ダブルヒロイン」でのこと。準備する時間がまったくないうえに体調不良という最悪のコンディションでの公演だったため、その後も本人はあまり語りたがらず、舞台にでるときはしっかり稽古の時間をとりたいと発言するようになったきっかけであった舞台だと思います。
当時の佐江ちゃんはけして、歌がうまくはなかった。佐江ちゃんといえば「ダンス」であり、歌も下手、というほどではないけれども、鼻にかかる声は音域が狭いイメージもありました。
けれどその後、地球ゴージャス「クザリアーナの翼」コルリ役、「AKB49」浦山実役(主演)と舞台の経験を積むごとに、佐江ちゃんはファンの期待を上回るものを見せてくれました。
特に「AKB49」は私がAKBファンであった間で最も感動したコンテンツのひとつとなりました。

帝国劇場でヒロイン役、という大役がきたのは、ファンとして嬉しくもあり、同時に本人は相当なプレッシャーだろうなと感じるキャスィングでした。それでも、それまでの佐江ちゃんを見ていたからこそ、きっと大丈夫、という思いもあったのです。

歌い出しを聞いた瞬間に泣けてきたのは、やっぱり佐江ちゃんだ、という思いがあったからだった気がします。
緊張の色を感じさせつつも、堂々と歌い上げるその声はほんの数ヶ月前の卒業コンサートと比べてもまるで違う、ミュージカルのために鍛えた歌声になっていました。
もちろん他キャストのかたがたに比べればまだまだだとは思います。
それでも今回の役の「現代からタイムスリップしてきたちょっと勝気な女の子」という役柄に、その異物感はちょうどよくなじんでいた気がしました。
なによりアイドル時代はボーイッシュ担当で「AKB49」では男性役を演じていた佐江ちゃんがお姫様になっていることにも感動してしまった。細!かわいい!でもキリッとするとボーイッシュさでてる!でもそのギャップがかわいい!という感じで忙しかった。

ハラハラするようなことは全くなく*1、なので集中して舞台を楽しむことができた私が、連れと幕間で叫んだのは「メンフィスかっこいい!!」であり、終演後に叫んだのは「ルカかっこいい!!!」でした。
メンフィスというのは古代エジプトのファラオなので、非常に傲慢なキャラクターです。そんなメンフィスが、イレギュラーであるキャロルに振り回され、恋をして、それでも「私の傍にいろ!」と命令しかできないもどかしさ、だだっ子感にはたいへんときめきました。身近にいたら嫌だけどそういうキャラクターにときめけるのはフィクションの楽しさですよね。
そしてルカを演じてらした矢田悠祐さんはお顔も立ち姿も大変に美しく、特に終盤の、壁際で盗み聞きをしているシーンの姿勢が最高にかっこよかった。二重スパイの役柄なので常にポーカーフェイスなのも素敵でしたね…。
メンフィスとキャロルを巡るライバルであるイズミルは(見に行った回すべて宮野さんの回でした)原作とイメージが少し違いましたが、メンフィスと対照的な雄雄しさがありかっこよかった。宮野さんは声量がすごいですね!
しかし何より圧巻だったのは、原作ではヒールに近い、アイシスの存在でした。
弟のメンフィス向ける切ない恋心がすれ違っていう様が非常にもどかしく、そこで歌われる曲のすばらしさもあいまって、むしろもうひとりのヒロインとして描かれていたように感じました。
ただ、キャロルのタイムスリップの原因でもあるという設定は残されているため、邪魔な存在を自ら招いたという矛盾を解決せずに終わるというところは少々消化不良な気もします。
全体的に弟大好きな姉と妹大好きな兄の圧力(2人とも歌が大変うまい)で押し切られた感はありました。

そんなわけでいろいろ思うところがないわけではないけれど、推しの出演作としても、少女漫画原作の舞台としても個人的にはとても楽しめた。
正直、推し目線を排除しては語れないのでなかなか感想を書きづらかったのですが、それでもやはり楽しかった、という気持ちはしっかりあるので書き残しておきたいと思いました。

王家の紋章」はめでたいことに来年に同じキャストで再演が決まっているので、次に見るときにどんな風に変わっているのか、今からとても楽しみです。次はもう一人のキャロルとイズミルのキャストでも見てみたいなと思います!


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*1:何様だという感じですがほんと孫の活躍を見守るような気分なんですよ……

13年ぶりのRADIOHEAD

RADIOHEADが13年ぶりにSUMMER SONICに来る、という話を聞いて、行こうと思ったものの、ぐずぐずとチケットをとらないでいた。
13年前にサマソニで見て以降も、たぶんフジロック以外の来日には1公演ずつではあるけど行っていて、でもだんだんと、自分とRADIOHEADの音楽の間に距離が開きつつあるのは感じていた。
新譜がでるたびに、すごいと思いつつ、それが自分にとってかけがえのないアルバムかと問われればそうではなく、
それでもかつて自分にとって唯一無二であったバンドがまだ活動し続けてくれているということは間違いなく嬉しいことだった。

13年前に一緒にサマソニへ行った友人とは、今や年に1度連絡をとるかどうかで、もう何年も顔を合わせていない。
随分遠くに来てしまったけれど、私にはまだRADIOHEADがいる、という気持ちがあった。

そんなわけで、ちょうどひと月前くらいに連絡をくれた友人とサマソニの話になったのをきっかけに、思い切ってチケットをとった。

既にその日は別のイベントを入れてしまったので、幕張に着いたのは15時頃。夕方から参加だなんて贅沢だなと思いながら、ビールだけ買ってメッセには寄らずにマリンスタジアムへ向かい、再結成したばかりのTHE YELLOW MONKEYからスタンド席で見ることにする。
THE YELLOW MONKEYのライブは熱心なファンではない自分でも知っている曲ばかりのフェス仕様で大変楽しかったし、丁寧で誠実な演奏だと思った。続いて見ることができたサカナクションも、これまた知っている曲の多いセットリストで、人気があるのがわかるな、という、うまくいえないけれど、自信に満ちた演奏だと感じた。

そして19時前。日の暮れた会場はRADIOHEADを待つ人でアリーナ後方まで埋まり、スタンド席も見渡す限り空きはないように見えた。
そんな期待に膨らんだ空気の中、私の正直な気持ちは、あの新譜の曲をライブで演奏してこの期待に満ちた空気はどうなってしまうんだろう、という心配が8割だったと思う。
それは現在の私が熱心なファンではないからだ、と言われてしまえばその通りだ。
そんな薄情者の意見で申し訳ないけれど、正直に言って「A MOON SHAPED POOL」には、スタジアムライブで聴くのに適した楽曲はほぼないのではないかと私は思っていた。


予想通り、ライブ冒頭は「A MOON SHAPED POOL」からの楽曲を立て続けに5曲、でスタートした。
あの曲をこんな風に演奏するのか、という驚きはあれど、音の拡散するスタジアムという環境で聞くにはかなりの集中力を要するし、踊れる、というわけでもないので混雑していたアリーナで見ていた人たちの中には、しんどい、と思った人も多いんじゃないかと思います。どうですかね。

それでも、私は彼らの演奏が、私が熱心に追いかけていた頃と変わらないことに感動していた。

私がRadioheadの音楽を信頼している理由を、一番私自身が避けたいと思っている言葉で現すならば、たぶんトム・ヨークという感情を乗せた、非常に性能の良いマシンのようなその「Radiohead」というバンドの構成にあります。だからこそ、そこで語られていることが何であれ、その職人のような音の作り上げ方にあっけなく感動してしまうのだと思う。つまり、トム・ヨークのドラマチックな声を限りなく生かすその音とともに聞こえてくる音楽は、聴くものの中にある何かを映すものなんじゃないかと思うのです。
http://ichinics.hatenadiary.com/entry/20081010/p1

かつて日記にこのように書いたことがあるけれど、その印象は今も変わらなかった。
コリンは今もフィル(とサポートのもう1人のドラマー*1)に寄り添って複雑な楽曲のリズムを道しるべのように支え続け、エドは黙々とギターをはじめとした演奏と繊細なコーラスで支え、ジョニーは相変わらずの前傾姿勢であちこち動き回りながら、全ての曲にRADIOHEADにしかない色を添えていく(ちょっとギター音硬すぎなんじゃないかとも思いましたが、場所が悪かったのかもしれない)。
トムの歌声も衰えておらず、ただ以前よりも神経質さがなくなったような印象を受けました。歌うときによく見せていた、首を振る仕草はなくなっていた。

その後、旧作からの人気楽曲を交えながら、あくまでも「A MOON SHAPED POOL」を主軸にライブは続き、「IDIOTEQUE」で一幕が終わる。
あそこに集まった人々の何割くらいが熱心なファンなのかはわからないけれど、新譜を聞き込んでいたとしても、ある意味取り付く島の(ありそうで)ないライブだったのではないかと思う。


だからこそ、アンコールで出てきて1曲目。エド、トム、ジョニーがギターを持ってドラム前に集まり「Let Downだ!」となった瞬間の嬉しさったらなかった。
個人的に思いいれのある曲、というのもあるけれど、1幕がほぼテクノ(エレクトロニカ)的なアプローチであったのに対し、ギターが3本集う、というだけでなんだかぐっと来てしまう。このとき、私はつまり彼らにロックバンドであることを求めていたのだなと思った。
続く「Present Tense」は新譜からだけれどこれもギターが印象的な楽曲。
「NUDE」まで来ると、トムの声がライブ序盤よりよく出ていることに気付く。改めてこの声が好きなんだよな……とぐっときて、からの「CREEP」ですよ。

13年前のサマソニマリンスタジアムではCREEPをやった、ということが語り草になるほど、「CREEP」は10年以上もの間、ほとんど演奏されない楽曲でした。ドキュメンタリービデオ(ビデオ!)でも少し描かれていましたが、彼らにとっては苦い思い出もある曲のようですし、内容も内容なので、個人的に好きな楽曲ではあれど、ライブでやって欲しいと公言するのは憚られる曲だった。
13年ぶりのマリンスタジアムでそれをやった*2、というのは彼らなりのサービスなのだと思います。
場内も、これを待っていたのだという様相で大いに盛り上がり、全編通して合唱に包まれる。私だってもちろん歌詞暗記してるくらい大好きな曲ですよ。
歌も、演奏も、メロディも、最高の曲だと思う。
しかし「俺はウジ虫」という歌詞をこれだけの大人数で合唱するというのは一種異様でもありますし、その部分で身をよじり、ムカデのような仕草をしてみせる(脇をしめて指をうねらせる)トムを見て、少し切なく、同時に丸くなったな、と思いました。
(個人的には「CREEP」じゃなく「JUST」や「My Iron Lung」でも同様の盛り上がりは得られる気がするんだけどアリーナが危ないかな…。)
そんな複雑な気持ちで見ていたからか、「CREEP」で終わってたまるかというようにすかさずギターを持ち「BODYSNATCHERS」(「In Rainbows」で一番好き!)がはじまった瞬間、よっしゃーとガッツポーズをしたい気持ちになりました。
そして、ラストを締めくくったのは、たぶん私が今までに見たRADIOHEADのライブで最も多く演奏された、そしてあんまり好きじゃなかった「STREET SPIRIT」でした。
名曲揃いの「THE BENDS」から、なんでこればっかりやるんだろうな、ってずっと思ってたんですよね。でも新譜と合わせて聞くと、この曲こそが、今のRADIOHEADの原点なんじゃないかな、と感じられて、なんだいい曲じゃないかと思うことができた。ようやく、今更。

曲を聴くと、その曲を熱心に聴いていた頃の光景が蘇ってくるということはよくあって、だから今RADIOHEADのライブを見たら、自分はどうなってしまうんだろうと、ライブの前はけっこう緊張していた。
でも、この日のライブを私は懐かしく、同時にとても新鮮な気持ちで見ることができて、
彼らが今もRADIOHEADで居続けてくれているということに、改めて感謝したい気持ちになりました。
彼らの音楽は、私の好む種類のものとは変わりつつあるということはもう随分前にわかっていた。
それでも、私はやはりRADIOHEADというバンドが好きなのだと思う。
行ってよかった。

そしてまた、ライブを見ることができますように。

*1:以前はポーティスヘッドのサポートも勤めていたクレイヴ・ディーマーさんがサポートに入っていましたが今回も同様なのかはわからず

*2:今年はパリなどでも演奏しているので、この曲に対する気持ちが変化したというのもあるのかもしれないけれど

夢中になると頭の中がそれ一色、になりやすいのは子どもの頃からの癖のようなもので、日記をはじめとした文章を書くのが好きなのも、そのガス抜きのような意味合いが強い。なので仕事以外で書くものについては自分にしかわからなような書き方をしがちなことも多く、誰かに読まれるということを二の次にしている自覚はあったのだけど、
つい先日、昔書いた文章への長い感想メールを頂いて、自分でもびっくりするくらい、とてもとても嬉しかった。

思えば今年の誕生日も、PCに向かって文章を書いているうちに0時を回っていて、何やってるんだかと突っ込むのもまた自分だし、物事に意味を求めすぎるのも好みではないものの、やはり少々、わが身を振り返って反省するところがあった。
穴のあいた桶に水を注ぎ続けているようなキリのなさというか、それよりもまず穴を塞ぐことを考えたほうがいいのではとか、あれこれ考えつつも、やはり自分は続けることが好きだと思ったりもした。

それは別に私についての文章ではなかった。
私の好きな人と、好きな人についての話で、それでもいただいたメールには「あなたの日々が、そのような、幸せな日々でありますように」と結ばれていた。
書いたものをどう受け取られるかは読む人の自由だと思うし、だからその言葉を読んで多少複雑な気分にはなったものの、私が憧れたような光景を、私自身に重ねてくれる人がいるということが、やはり嬉しい、と思った。
そうやって自分の書いたものが、どこかの誰かに届く機会をくれたインターネットに感謝しつつ、その気持ちを忘れないように日記を書いておく。

旅行

まだ大学生の頃、二度目の個人旅行でタイを回って、すっかり感化されてしまった私は、帰国してからもしばらく興奮状態で、当時付き合っていた彼に海外旅行の素晴らしさについて語ったりしていた。
今になって思うと、すでに社会人として働いていた彼には、まだ学生だった私の発言は随分暢気で、生意気なものに聞こえただろう。
そのことが直接の原因というわけではないが、結果的に、彼とはその数ヶ月後に別れることになった。
私は当時そのことを、なぜなのかわからないままにとても後悔して、次に控えていた旅行をキャンセルしたりもしたのだけど、
今日のような、梅雨明けのむわっとした空気をかきわけて歩く日には、その10日間程度のタイ旅行のことが繰り返し体感として思い出され、苦い思い出はあれど、やはり時間に融通の利く学生のうちにたくさん旅行をしておいたのはよかったなと、今は素直に思う。

タイについて数日後、バンコクの安宿街でチェンマイに向かうバスを予約した。
近くにあった寺の境内でバスを待っていると、集まってきた乗り合い客の半数以上は欧米人だった。実際、その安宿街のテラスで酒を飲んでいるのは、たいていが欧米人で、一度相席をしたフランス人の男性に、なにしろ夏休みが90日あるからね、と言われてからずっと、私はフランスの夏休みに憧れを抱いている。

深夜に発車したバスは満員で、身体が大きく座席に座りきれなかった男性が通路に横になるのを見て、隣同士に座った私と友人は、身体が小さくてよかったねと言い合った。
明け方、たぶんバスがパンクして、雑然と赤と青の椅子が並べられているだけのPAで何時間も待たされることになった。そこはフードコートのようだったが店はひとつも開いていなくて、私たちはひたすら、バスを囲んであれこれ言い合う運転手達を見ているしかなかった。
不安気な顔をしていたのだろう私たちに、近くに座っていたドイツ人の女性がクイズを出してくれた。細かな内容は忘れてしまったけれど、とても聞き取りやすい英語だったのは覚えている。

やっとバスが動きだし、宿についた私は真っ先に日本へ電話をかけた。
電話はとられることなく、しばらく発信音を聴いて、切った。

季節の変わり目などのふとした瞬間に、ここではないどこかの、
例えばその朝の、砂でざらざらした床と、白っぽく霞んだ空、今何が起きているのかいまいちわからないままに、数時間待ち続けた心細さを思い出すと、
もしかすると本当はいまもあのPAで、バスが動くのを待っているんじゃないかという気分になったりもする。

旅行というのはそうやって、自分を千切って、あちこちに置いてくる作業なのかもしれない。
例えば挿したレゾネーターを、遠くから見守るみたいに。