ランド・オブ・プレンティ

landofplenty
監督:ヴィム・ヴェンダース

【内容に触れています】

少女ラナがイスラエルから故郷のアメリカへ帰ってくるところから物語がはじまる。その目的は母の兄ポールを見つけだし、母親からの手紙を手渡す為だった。やがて二人は巡り会い、それぞれの思惑を胸に、ある事件に巻き込まれてなくなったアラブ人ハッサンの遺体をその兄へ届ける旅をはじめるというのがおおまかな筋だ。
ベトナム戦争と9・11テロの後遺症に悩まされ、L・Aの街を警備しているポールは、アメリカ全体の平和が自分1人の手にかかっているかのような強迫観念にとらわれている。しかしそれは同時に自らのトラウマの根を自ら掘り起こす作業でもあるのだろう。冒頭のシーンで、ポールがアラブ人であるハッサンに目をつけるところからして、既に大誇大妄想じみた哀しみを感じる、と思うのは私がアメリカ人ではないからなのだろうか?
その反面、アフリカとイスラエルで育ったという少女ラナは、まるで聖母のように描かれているが、それはハッサンの発する台詞「私の故郷は国(place)ではなく民族(people)です」を体現するような存在なのだと思う。
物語は愚直なまでに9・11後のアメリカが見失いつつあるものを知らしめようとしているように見えるが、私の個人的な感想としては、ポールが「発見」に至るまでの過程はあまりにも形式的過ぎるような気がする。
例えば、あの同時多発テロが起こった瞬間、イスラエルは夜だった、と語るラナのその後の「悪夢」について言及しないのは何故なのだろうか。どこの国の人でもない彼女だからこそ、語れることがあったはずではないのかと思ってしまった。
また、事件に巻き込まれたハッサンの死をポール自身がもっと真摯に受け止めるべきではないのか、とも思えた。あの無造作に投げ出される写真がせつない。またアメリカの貧困についての触れ方も、それを見ているのはラナだけで、ポールにはそれが見えないままなのではないかと思えた。
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公開時期とその扱っている内容の類似点から、どうしてもゴダール「アワーミュージック」(id:ichinics:20051105:p1)と比較して見てしまったのだけど、両作品が見るものに促すものには隔たりがあるように感じる。
例えば、9・11のアメリカの裏側で、歓喜の声をあげるパレスチナの人々の声についてラナが語る時に、私が思いだしたのは藤原新也さんの本「アメリカ」で読んだアポロ11号着陸に歓喜するアメリカの裏側で、怒りをあらわにするイスラムの人々についての描写(id:ichinics:20050507:p2)だった。イスラム教についてはまったく知識がないので、彼らが月を神聖視しているというのにもピンとこなかったのだけど、ともかく、その感覚はゴダールの語った「切り返しショット」に近いのではないだろうか。
「国」という単位ではなく、相容れないものも「共存」できる未来を模索しつつ、あえて結論づけることをしなかったのが「アワーミュージック」のように感じ、私はやはり、そこに惹かれているんだと思う。
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あと、音楽はとても良かったのだけど、あちこちで入りすぎていて少々過剰に感じた。でもレナード・コーエンの新譜とThomという人のアルバムは買わなきゃなと思った。