グーグーだって猫である/大島弓子

グーグーだって猫である (3)

グーグーだって猫である (3)

第二巻から、いつのまにやらもう5年。大島弓子の新刊が読めるしあわせを噛み締めつつ、ゆっくりと、でも一気に読んでしまった。
本屋さんでさんざん探しまわって、ペットエッセイコーナーでこの新刊を見つけたときは複雑な気分になったけど、読んでみるとああこれ大島さんの漫画だノっ、て実感できる内容で、うれしい。タマも元気になってなにより。
この3巻は、おもにタマの成長と5匹の子猫との出会いと別れがお話の中心になっている。特に印象に残ったのは、大島さんに拾われた5匹の子猫のうち、黒猫白足袋の、お母さんにつれられてきた女の子に引き取られた子猫が、「ヤマト」と名付けられるエピソードで、それは以前、わたしのうちにいた黒猫も、ヤマトという名前だったからという単純な理由なんだけど、どのお話を読んでいても思い出すのは我が家の猫たちのことばかりで、たぶんきっと、猫と暮らすというのはそういうことなのだ、と思う。
我が家には、今はもう寝てばかりの、20歳すぎのおばあさん猫がいる。もともとのら猫だった彼女が、うちの子になってからの20年間にも、我が家の人々はたびたび猫を拾ってきた。しかし、気難しく、縄張り意識の強い彼女とうまくやれたのは、そういえばヤマトだけだった。それはたぶんヤマトだけが雄猫だったからだと思ってるのだけど、おおむね気難しいタイプの多かった我が家の雌猫に比べて、ヤマトはなんというか元気溌剌な子で、私の母親の肩に乗っかって散歩いったりね、その踏み締める足のなんてかわいいことノ! てみんなに愛されてた。
でも私は大島さんみたいに、ちゃんと猫を見れてたかなって思うと、全然だめだ、と思うし、そもそも私は何にでも愛情を注ぐということがへたで恥ずかしい。ただ、大事にするというのは、ただ好きという気持ちだけでできることではないときもある。
3巻を読み終わって、タマと、タマによりそって眠った5匹の子猫の、そのたたずまいを思い出す。そこに注がれる視線にすこしだけ、勇気づけられるような気がして、早足で家に帰る。彼女は今日も眠っている。ときどき不機嫌そうにこちらを見る。