猫と日々

長らく積んであった、「長い長いさんぽ」*1を読んだ。須藤真澄さんのエッセイまんがで、ゆず、という猫との別れが描かれている。
この本に限らず、猫が出てくる物語を読みながら考えてしまうのは、やはり自分と暮らした猫のことだ。だから読み終えても、特に感想は浮かんでこなくて、ただ昨年末に死んでしまったチャオのことをずっと考えていた。
チャオとは22年間も一緒にくらした。家の中でも外でも、つれない猫だった。腹が減っていればすりよってくるけれど、そうでなければ見向きもしない。たまーに流し目をくれて、申し訳程度にのどをならすくらいだった。
小学生の頃、幼稚園児だった弟が拾ってきた猫で、チャオという名前は私がつけた。我ながらてきとうすぎるけれども、当時読みたくても買ってもらえなかった漫画雑誌「ちゃお」からとった名前だった。子ども時代から一緒にいたせいか、飼い猫というよりは、きょうだいみたいな感じで、顔をあわせればお互いに「ああいたの」なんて顔してすれ違った。ファミコンのコードにチャオがじゃれ、ドラクエ3のセーブデータが消えたときは泣いたなあ、とかいうのも兄弟喧嘩の思いでみたいなもんで、大抵は居間に並んですわり、もしくはTVの上のチャオにしっぽがじゃまで見えない、と文句をいったりした。家族が食卓につくころには隣でご飯を食べ、先に食べ終わったチャオがTVの上に移動すると、やはりだれかに「しっぽがじゃまで見えない」といわれたりしていた。眠っている誰かの部屋をのぞいて「ごはんだよー」などと声をかければ、その首もとで丸くなっていたチャオが返事をすることもあった。
ありふれた景色の中にはいつもチャオがいて、それがあんまりにも当たり前のことだったので、今でもカーテンの裏の日だまりの中に、テレビの上に、ストーブの上に、その姿がある、と思う。
でもそれは思うだけだ。思うだけで、そこにいないことは寂しい。けれど、あの時は、かなしさよりも先に、おつかれさま、という気持ちがあったのもほんとで、チャオは長生きしてほんとにすごいなあ、しんどいのによく頑張ったなあと思うほうがつよい。そんなふうに、いつの間にかわたしよりお姉さんになったチャオを、私はけっこう尊敬していて、
「長い長いさんぽ」を読みながら思ったのは、もしかすると私は幸運だったのかもしれないなと、いうことだった。それは物語と比較してどうこうということではなく、かなしいけど、それよりもずっと強い気持ちで、すげえなあチャオ、という気持ちでいられるのは、とてもありがたいことなのだなと、思った。